2003-10-12十月十二日 例祭当日の朝のご挨拶時にて。

 

大神様

「鵜戸の大神、しばらくこの地から離れておられた。じゃが、神子に白蛇(びゃくだ)があまりの清さに鵜戸からついて参った。これは鵜戸の神が今一度、この地でこの信心の聖なる者達を守るとして力になりとうと思い、我が元へ参りし。それによりそなた達に名誉を招じあげた」

 

 

鵜戸の神様

「鵜戸の神と日々唱えておられたが、我の元へは足を向けることなく。じゃが、今回の鋭き霊力により、鵜戸の神へ参ること、神が大神が神子に仰せ付けられた。我も嬉しきや。またまたこのような穢れなき、清らかになりし、真なる神の教えを伝えようと致す皆々の元で我の力も発揮致すこととなろうぞ。我が眷属である美しき白蛇は神子を一目見たその折、あまりの清さに離れ難き。神子と共について行き申した。やはり我の鵜戸の神とは縁深きものがある。

これより後、様々の神々と共にその清らかに正しき真なる心を持つ者達を称え、神々と共の力を発揮させて行くことと致す。本日めでたきこと。大神も非常なる喜び。真なることを致さねば、力は衰退致す。神子よ、我も力となり申すゆえ、そなたの(たま)に固く入ること、許されよ」

 

 

大神様

「良きこと。鵜戸の神よりの()でる言葉、有り難き事と思う。良いか、一度神司を祀りあげし時、そのまま放置致すことならず。神にとりしは真に無礼なる仕業。そのようなこと無きよう、この後、致して参れ。眷属もこちらの神子の元へ参り。何とも美しき眷属じゃ。(眷属は)喜び、(天神教は)これよりますますの繁栄を致すこと。全てなる神々が良き事と神に喜び申しておる。美しき所には美しき者が集まる。これよりは全てが清く、全てが神々の心(と)同じゅう強さを受け、我には分からぬ強き、清き、正しき道を開ける人間となろう」

 

 

御大師様

「大師じゃ。全て穢れしことより離れ、穏やかなる心、そして温かき目を持ち、純心に正しきものを見極められるようになられた者には、必ずや今までの間違い(が解り)、そして神様のお教え(を知ることが出来)、有り難き事ぞ。

素晴らしき力を持つ神様がまたお力になられる。日々、忙しく動かれる。何とか生活に破綻を来たさず参られるも全てはそなた達の必死なる信心、清き信心なる者に掛ける心。心とはのう、口に申すことはモンラク(?)なこと、じゃが、我の心を見ることは出来ぬであろう。それを常々、神、大師、それと御仏、心の中より見抜くこと致しておる。それにより次はこの事、次はこの事と今迄になきこと。この神子が参ってから真なる神、御仏への祀りを致し、守る事となる。その事じゃ。

本日は我(と)生まれも育ちも信心の伝え方も違うたが、じゃが、立派にそこ(故郷)より離れて、世の為、人々の為の心持つ人間を作りあげし最澄殿が我の祀られし所にわざわざとお参り下された。なんと心苦しきことになれど、そのようなことに我も清く分かち合う。己が正しい、己の方が勝ち誇る、そのような信心ではなき事ゆえ、こうして大師が祀られる所へ向いて下さるものを真嬉しきこと。最澄殿はそれほど大きな大きな御心の持ち主ということ。最澄殿、お話を」

 

最澄様

「我の出る所とは違う所。大師殿にご無礼とは存ずるが、そなた方はこの最澄を大師殿と同じゅう心を持ちて崇めて下された。それゆえ、我もこの喜び伝えとうて、一言述べとう思う心が邪魔を致した。

信心致すは確かに道は分かれてしもうことがある。じゃが、最後は、最後の心は一つ。難しき事を並べたて申した所で、ただただ(理解に)苦しむことのみ。一言で決めて申す。我の心が清く正しく、常にまっすぐ前を見、如何なる時も悪に勝てる力を持つということ。それを日々我に(自身に対して)力を唱え、その心忘れることなければ、強き清き、皆々が求める信心の場となるのじゃ。

真、嬉しきことより、本日は大師殿にご無礼を申した。じゃが、そなた方は分からぬが、日に日に立派などこにも無き信心の場と化して行く。嬉しき事じゃ。喜びのことじゃ」

2003-11-08

 

平成十五年十一月八日、朝のご挨拶時にて。

大神様、有志へ

王滝頂上の大神様

「これで様々な神々が揃うた。今度の大祭は参りし者、今までになき大きな大きな加護を受けることが出来る。間違いを正す。神の元にありし物(以前置かれていた姿像)は除き、必要で祀りしものは祀りし。見よ、そなた方には見えぬが神子には見えておる。鵜戸の神、富士の神、香取の神、鹿島の神、イザナギ、イザナミの神、そして弁財天大神、我らに一つ加わりし稲荷の神が真喜び、揃うておるぞ。もちろん我の横には八海山の神、三笠山の神、そなた方は見えぬが、知ること致すことでよい。心の目で見れる。これが真の神との共の祭りとなること。我の(人間が)特別な着物を着、我(人間)の祭りをするのではない。大祭とは日々守り抜いて、そして守護を致す神に対して、一年に一度の心からの(感謝を願う)大きな祭り。それが大祭じゃ。先の者達はそれすらも理解せず、違うた取り方を致しておる。

何につけこの様に神々が集まりし、喜びを与えんとすること。そなた達の努力、そして一つになり、神の申す通り心を新たに清き信心を致す心、それにより愛でた、愛でて祭りを喜ぶ神々じゃ」

 

御大師様

「いよいよ真に待っておった祭りが参るのう(始まるのう)。祭りとは神様のおっしゃる通り、一年を通して神様に御仏様にもお礼(として)の、大き(くなった)な信心の磨いた心でお参りを致すこと。『これほどお陰を持ちまして大きくさせてもらい有り難く思います』と云うその心を見せる時なのじゃ。そなた達には町々にある氏神の祭りが(ある時)神輿を担ぎ、そうして神に礼を申す。皆々に長を(地主の頭が)我らの神の祭りじゃと申して歩いておる。違えてはならぬのは、我(人間)の祭りではない。神とは御仏とは、そしてそなた達を救うたもの達(神々様、御仏様方)に対しての心からの大きな大きな礼を尽くすこと。その時が大きな祭りとなるのじゃ。我もそなた達も礼を申さねばならぬのう。幾度も幾度もこうして我が崇めしもの、我の側の観音様と共の日々を送りとう思うて、それを一年持たずにして叶えてもろうた。この喜びを大師がそなた達に対し礼を申すことじゃ。じゃが御仏もたくさん居るでのう。共に喜び(途中で切れている)」

 

夜のやつ行時にて。

 

大神様

「皆よくこれまで規律を守り、そして導き、新しき風を入れ、神を信じ、全てを手早く済み、あの忌まわしい銅像(教祖、元管長の銅像)も払い除け、代わりに長き放置致しておった鵜戸の神をお連れ致し、その眷属までも(お連れ致した)。そなた達、清きを、何事にも負けぬ、落ちぬ、貫き通せる力を持つことが出来たため一人一人では力も及ばぬ(こともあるが)、じゃが、これだけの人数の力あればそなた方の力を一つに合わせ、これから始まる真の日本の古来からの神との交流、果たして行けるぞ。

この祭りが来るまでに全てを整えること、神子はそのため疲れを起こし、身を崩したが見てみよ。神の子はどの様に苦しみがあろうと打ち勝つのじゃ。病が辛うからと申して気落ち致せばどんどん悪化する。その病に負けぬほどの心、強さを持たれよ。

今度の祭りは今までとは違う。神々がこの地に集うて参っておる。この小さな宗教の場に清らかな風が吹き抜ける。我もこの様な楽しみを致すこと久々じゃ。

神子よ、そなたの力を発揮致す日であるぞ。神々が集う、愛でておる。しかと我が与えられん役目を滞ることなく進めて参れ。遠くより参りし者達、そなた達にもこの信心は同じく伝わって参る。今までの様に訳の分からぬままではなく、遠くにありても全てが一つ(真なる信心の教えは一つであることが伝わる)。神は常に分け隔てなく、守護を致すのみ。しかと(新しき信徒にも)伝えて行かれよ」

 

 

現在の四国の八十八箇所についてお教え下さる。

 

御大師様

「嬉しいのう。もうここを離れて行きし者達は真に信心なるものを覚えることも知ることもなく、そしてこの様な素晴らしき、信心の穢れなきこの参る場、集う場、足を向けることを二度と出来ぬは寂しかろうが、それは人間という生き物として己が選ぶ時に惑わされし者は正しき事を学ぼうと致しても、芯から学んで行くこと出来ぬ。じゃから新しい風を入れて、それが膨らみ、世へと渡り、大師のこの場での役も大きくしてもろうて、真、有り難き事じゃ。

大師はのう、大師がなぜに我が聖地の四国を巡り、そしてそこに霊場を建てたか知れば、そなた達もこれは大きな心の(八十八箇所を回る意義のとらえ方が)間違いであったことに気が付く。昔はそれはそれは回るのみ。幾日も幾日もかければ山の中を越え、谷を渡り行かねばならぬ所もある。それを越えし、我が願い、望みを成就致さんと回りし者達(が居るゆえに)、その場その場を大師が回り(し所も今では)この地は悪しき地。寺を建て、御来如(?)を置き、そしてその地を鎮めんがための所と致し、皆がそれを参ることにより、その御仏に加護を致してもろうこと願った。じゃが、苦労なく今は乗り物に乗りてただそこを通過致し、心の奥に我の信心に対する、一箇所一箇所に対する心が入っておる者はおらん。じゃによって、よくそこに行きしは願い事に行く者達が多くなり、欲で渦巻いておる。真の信心のために参るのであれば、あまりにも穢れし所となり、じゃによって、神子様には穢れし所には足を向けることなさらぬよう、大師が申し続けた。八十八箇所回れば行となると申したのはその古き時。今は背負う悪が多い。

こちらへ善通寺の初代守りし者がおるが、善通寺はまた高野と違う。(御仏様を)天国と見なしたような祀り方を致しておる。歴史を調べた所によりて、我らの信心が深まるとは申せぬ。我に悪鬼を背負わすようなこと無きよう。こちらにおいてもこれほどのお方達(神様、御仏様)がお見えになる。何も穢れた場所へ足を向けることなぞ要らぬぞ。

深き心には美しく澄んだ水が流れる。澱み切ったところには澄んだ水は流れぬ。そこへ流れたと致しても、すぐ消されてしまう。八十八箇所に決して気を取られることなく、我らの教えられし信心なること大事と致せ」