神様の、お言葉は短く、初めての方には理解し難い所は、カッコ補足にて補足、注釈を書き足しました。


父は肺気腫を患い

相談者

「父は肺気腫を患い、徐々に悪化しております。

私は、父親の心が安らぐようにと思い、信仰を勧めておりますが、両親共その気はないようです。

どのようにすれば、良いのでしょうか?」

 

神様

「真に気の毒なれど、治療する手立てはない。

このまま、今の状態で参れば、三年もてば 良き方。

肺の中に水が溜まり、息苦しくなり、入院させねば、どうにもならなくなる。

今この者に、信心のあり方を説いた所で、何も耳には入らず。

我が身が、如何になるかという恐ろしさのみで、その心を、穏やかに致す為に、御仏がおる世を伝えやるしかない。

今になり、信心を始めた所で、もうすでに、 時は経ち過ぎておる。

我が身の、苦しみのゆえ、信心の話など 聞いてはおれぬ。

申しておくが、「心」致しておかれよ。

(医者の)手が行き(届き)、進行はあまり 早くはないが、決して良き方へとは進まぬこと。

 

信心(の)心のなき者に、信心を説くということは、受け入れる器がない物に 何を入れたら良いか(と同じこと)

(本来ならば)その器が小さくても、 (受け入れるスペースを)作らねばならぬ。

 息子は、何も嘆き、苦しむことはない。

 人間、生まれもって、一人一人違うの じゃから、救うてやりとうても、手を差し伸べても、相手が身を委ねることできねば、致仕かたなきこと。

 

 真、辛うことだが、父の方は、良くはならぬ。

  心得ておかれよ。

 

父の心穏やかな時、神様よりのご神勅 (信心の心構え)、御仏様よりの心構えの、記したものを、父と話が出れば致してみるが良い。

 真、息苦しさが、絶えず襲いかかる病なので、静かに、この世を果たれし時のことも、申し聞かすが良い。

そなたの、その懸命なる態度を見て、 母も、どのように感ずるか……。

心が柔らかくなり、そなたに付いて参る ような母とならば、嬉しき事じゃがのう。

信心とは真、相手の心に染み込むまで日がかかる。

心残りのなきよう、全てを申し聞かせ。

そして、あと数ヶ月もすれば、病院へ、 入院もいたす身となる。

人間とは、今生にての苦しみを越え、 成仏いたすもの。

その事を静かに、申し聞かされよ」

後書き

 今まで触れずに来た信仰心を、急に持たせようと思っても、すぐには理解できないでしょう。

 少しずつ、少しずつ心に蓄えて、自ら納得させて行く修行が必要です。

 父親は、死を目前にして、畏怖の念を抱き、心に余裕がないのです。

 私達は死後を見ることはできませんが、知識ある者と、無知でいる者とでは、今生において、心構えが変わってくるでしょう。

 

天心学院「たより」より

 正しい信仰心を持ち、心穏やかに日々を送り、この世を去りたいものです。

〈身体痛みに悩む77歳の老人〉

 以前に大阪の枚方市に住む娘夫婦がお世話になりました、と田舎より来訪されました。

若い時より畳屋を営むこの老人

「この度は自分の体、左肩の付け根が痛み、右腕も少し痺(しび)れています如何すれば良いでしょうか?」

というお伺いに見えました。

 

 神様、お教え下さる。

「先ず左肩。これは前かがみの姿勢。それにより左付け根の筋肉が衰(おとろ)えた状態に負担を掛け、肩より首筋、これは長年に渡り、同じ筋肉を疲労させてしもうた。しばらく湿布し、なだめるしかない。右の手の痺れは左が痛めれば、右も同じゅう痛む。左斜(なな)めに走る神経が右膝上神経を麻痺(まひ)させる。これは温めさせぬ事。手を両手を指を開き、閉じ、血行(けっこう)を良くする事。一時的に医者に行った所で根元から治す事は無理じゃ。先ず、良く使いし左肩、背、腕の付け根、そこの所を温めてみよ」

(後書) この老人、若い時から畳(たたみ)職人として働いて来たと仰(おっしゃる。

なる程、これはやむを得ない職業病かなと気付きました。

 

 

(病気で苦しい日々に悩む人々、) 

201312 

 東京より年配の奥様が七十代の夫の病気が回復しない、このままで完治するでしょうか?、とお伺いに見えました。
「夫が胃がんの手術をしましたが、その時に十二指腸の縫合不全を発症し、未だ治っておりません。
 また、湿疹の症状が顔に現れ、医者から膠原病の疑いがあると診断されて検査中です。
 見舞いに行くと夫は気丈に振る舞っておりますが、病が次々と起こり、私はとても心配です。
 このまま、この病院を信じ入院していても大丈夫でしょうか? 夫の病気は良くなるのでしょうか?」と、神様にお伺い申し上げました。

 

神様
「動物なる人間も、ふとした事より病と闘う時がまいる。
 なれど、第一に申すことある。
 そなたの夫なるは、まだ今生でのやり残しに気を奪われるほどの力(を)蓄えしおること。
 その程度の小さきことで(夫は)心落ち着かずにおること、それは己の為す出来事が(次々と起こる病を)案じてならぬのであろう。
 なれど必ずや、しかとした身を持ちて、この病院より去ること(退院)できる。
 あまりに動き回らぬ(病院は変えぬ)方がよい。
(縫合部が)付くものも付かぬようなる。
 わずかなるものとて侮ってはならぬ、侮ることなかれ。
 元気が(戻り)、輝かしき顔、身をもって、この病院を去ることできるは、(医者に頼る病院でなく)己の心の中の力ひとつ(次第)。
 穏やかに静かに、そなた(という)妻がいることによりて、我(夫)はこのように元気なることを見せておきたく思う。
 なれど、(他の病院に)動かぬ(移さぬ)方が、救うことが早かろう。
 なんの案ずることなく、いま己の置かれている場で、何ひとつ案じたところで己の思うままにはならぬこと。
 己の思う通りに行くこと願わば、静かなる身を持ち、穏やかなる心を持ち、大きなる後のこと(退院後の生活)に心を馳せ、一日一日を過ごすことによりて、思わぬほどの早さで良くなることであろう。

 

 むやみに元気を振り回すことなく(安静にしなければ)、付こう付こうとしているもの(縫合部は)、我が動けばまた離れてしもう。
 静かに穏やかに、その一ミリたるものに愛しさをかけて行けば、なんのことあろう。
 みな良く、心地良き人生なる(人生に)戻ることできるであろう。
 全て医者に我を任せて(任せるの)ではなく、我の身は、我の身体の中から湧き出てまいる気という大きなるものによりて、元(の健康体)へと治してまいる。
案ずることはない。
 赤き湿疹なれど、静かに取れてまいる。
 我の精神はあれもこれもと行くから、身体の中の弱りし所より現れてしもう。
 なれど、薬なるも悪しきものではない。それにて取れることあらば、それにても良かろう。
 今の医者にそう長くかかっておることは、なきことと思え(もうすぐ治り退院出来ると思え)」

 

 後日、この奥様がお礼に見えになられました、 

神様のお言葉をいただいてから三週間ほどで、主人の十二指腸の縫合が完全に治ったという喜びの報告がありました。

  老齢化に伴い、必ずや一つか二つかは誰でも病の症状が出てくると思います。

 だからと言って、身体と気力が比例するというわけではありません。
「病は気から」という諺があるように、身体に異常をきたすと弱気になり、精神的にまいってしまうと、

医療技術が発達した現代において治ると言われたものも治らなくなるそうです。

 「絶対に治る」という気持ちを強く持ち、病に打ち勝つ気力を持つことが何よりも大事と教えていただきました。

今の貴方も心の持ち方次第で快方に向かう方法があると信じる気力を持って生きられますか?。


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 目について初老の男性がお伺いに見えました。

「十五年前、網膜剥離で左目が見えなくなりました。

 現在、針灸師として働いていますが、今後、右目も見えなくなり、仕事が続けられなくなるのではないかと心配です。

 何か対策があるでしょうか?」


神様

「気の毒なることじゃ。

 そなたがかかりし医者なるは、浅き腕を持ちながら(手術を施し)、なんといたし失明なるもの。

 恐ろしきことよ。

 なれど、そなたは今ひとつの目があろう。

(しかし)その目も悪くなるかもしれぬと思わば、心の中にて絶えず苦しむ。

 ゆえに、しかといたしたる病院、設備が整いし大きなる病院が東の方向に、そなたの家より日の昇る方向にあろうはず。

 そちらにて今一度、診てもろうことじゃ。

 今の医療なる技術にては、そなたの片方の目の見えぬ方も見えるようなる技術を持つ医者がおる。

 なれど、数は少のう。

 とにもかくにも、しかと我の心に何も残らぬ晴れ晴れと清々しきものを持ちて、この後の人生を歩み出すことが、そなたにとりても、そなたの妻となりし者にとりても、そなたの子にとりても、そして何より、そなたのこれから先なる生き方に大きなる光が見出すこととなろう。


 今ひとつの目は、いかにも酷使いたしておるゆえに、かすむ時があろう。

 その時はその時。

 そなたの(仕事の)腕は確かなる腕。

 胸に大きなる自信を持ちて、日々を送らんとすることによりて、悪しきことも良きことへと変わりゆく。

 楽しき喜びし日々を満々とたたえたるわが身には、大きなる気力と申すものが溢れよう。

 いま使いし目は、なるべく必要なること以外、休むようにいたすことじゃ。


 世には両方とも見えず、なれど希望を捨てず、生きゆく者が多くある。

 そなたの目となりし(心の)美しゅう嫁が、絶えず側におられしことを何よりの喜びと思い、何よりの力なることと思いて、様々なることに心動かされることなく、穏やかなる日々を送られることじゃ。

 それによりて、そなたの娘なるも落ち着きしことあろう。


 老後に備え、こつこつと貯めたる金子は(左目の視力回復手術に当てることにより)、そなた達の重み(苦しみ)を消し去ろう。

 今なれば、まだ若き(ゆえ)、案ずることいたすことなく、日々の優しき温かき清きし心にて、何事も全て変わる(と)申そうぞ」

「あなた自身の病を如何すれば克服できると思いますか?」

 20139 神様にお伺い

 身体が不自由そうに足を引きずった中年の女性が、夫と共に神様にお伺いに見えました。 「二年ほど前に脳梗塞で、東京にある大学病院に入院しました。診てもらった結果、血管内側の細胞が剥離して、その細胞が細い血管を詰まらせてしまい、脳梗塞になったと言われましたが、なぜ血管内部の細胞が剥がれたのか、原因はわからないと言われました。現在は近くの病院に通院しています。家事がリハビリだと医者に言われましたが、なかなか良くなりません。何か早く良くなる方法がないでしょうか?」

と神様にお伺いに見えました。

 

 

 神様

「そなたがその病にかかりしは、油多きもの取りすぎにより、また真に身に悪しき辛きもの(を)より好み、偏りし食事そのものによりて、身体を走る(身体に流れる)血液の線なるもの、あちらこちらに脂肪なるものが付き、その脂肪が血液の中へと入り込み、身体を巡る大事なる所、その場所その場所(に)深く入り込みしことにて中を覆いし、その管がそのものにて破れさり、少々ずつ流れ行かば、通りしものも一つに固まり、この場にて詰まりしこと、それにて破裂いたした。今のもらいし薬は、わが国において、どこぞの病を診てもらう医者に行けど、それより他なる(良き)薬はまだ見つからぬゆえに、他の国にても、そなたと同じゅう病を背負いし者(が)多くおる。じゃが、何を嘆くか……。まだ若きなれど、この先の希望がある。今もらいし薬では、そなたの血管なるものを詰まらず、濃くせず、静かに流れしものと変えゆくこと。そなたは苦しきと思いしが、そなたの状態でおることは、まだまだ楽なること」    

(注釈)食事だけが病の原因となるのでしょうか?その病に対する気の持ち方、対応方法をお教え下さいました、

 神様より

 「そなたが、そのようになりしは食事にも(原因が)あろうが、何事も物事を嬉しきことと考えず、いわゆる胸に溜めしストレスとなり、日々何かに悩まされおること。今生はまだまだ、そなたの生きる道は残されておる。同じゅう歩きながらでも、今生の(修)行を行う時は、我の心のため、常に我が生きたることを喜びと思い(なさい)。何事も考えすぎて悪しきものへと持っていく考え方が、そなたの身体の中を巡る生きる血液となるものまでも(悪く)変えてしもうこととなる 。日々を幸せじゃと思い、今生にて我を思うてくれる者(夫)が側におりしこと、喜び事と感じ、我の力にて日々を少し少しなりとも前進いたす(ことにより)、生きる喜びの(喜びを)見出せること。歩くは誠に辛きことと思うことが、真そなたは考え違いじゃ。そなたにはまだ、歩ける力を持つ足がある。その足とて切り取られし若き者もおる。  そのような者たちよりも、我は今このようなる程度で歩いて行ける。  今少し良く歩けるようなる身になりたくば、我で治すこと。常に歪んだる心を持ちては、そのように喜びの心は持てぬ。手が痺れ、動かぬと申しても、それは動かさずにおくから動かぬのじゃ。我が動かしてみせる動き、そして病にかかる前に戻りしこと願い、常に笑いを忘れず、何をいたすも我が良くなること喜び事と思いて、一点に集中いたすこと。(そうすることにより)そなたよりまだまだ動けぬようなる者も、わが力にてほぼ前と同じようなるほどに歩くことできるようなる。 手にも物もちて、常に手を動かし、動かせば必ずや、その司る神経がそなたの希望を通し、脳へと指令を出す。脳から違う神経が、動け動けと指令を出すようなる。そなたの病を、我(神)にいつ治るかと聞くは大きな(間)違いじゃ。そなたは我に聞く前に、そなたはいつまでに治すと(決心を)答えねばならぬ。そなたの身体、まず足からでも、日々毎日のごとく歩くこと。そして、そこへ通ずる神経が、そなたが望む所へと大きく走り出す。足が動くこととならば、手でも同じこと、始めは軽き物を持つことから、我で治して行くという力を持つ(こと)。人に治してもらうことを考えておらば、いつまで経っても同じゅうことじゃ。我(神)にいつになったら治るかと聞くは、大きな(間)違いよ。  そのように健全なる身体となり、まだまだ生きておるではないか……

(注釈) 病は気からという諺があるように、始めから神様に頼るのではなく、まず己の努力で病から立ち治ろうと奮起する心が大事だと教えていただきました。また、あるテレビのドキュメンタリー番組で、義足で走り回る子供たちの姿に何の劣等感も感じさせない明るさを見て、心から敬服しました。気持ちの持ち方により、人間はどのようにでも変われるものと思います。

続き神様より「命、御魂ある限り、我は(修)行をいたさねばならぬのじゃ。そして、その(修)行が可能 た時、喜びは大きく変わる。何かを間違えて取ってはならぬ。神が全てを治してくれると思っておるようじゃが、治す治さぬは我の力。我はそなたに、しかとした御魂(生命)を授けておる。御魂まで取られぬこと喜びと思い、(この世での)残りしことを(残りの人生)、辛き思いをいたすことなく、我でいつまでもこの状態でおりたくなければ、我が動かして行け。動かして行くことによりて、違う神経が司る。 そなたが一年かけて治す(と思えば)、どのようなる辛き訓練なれど、越えて行くと思わば行けるのじゃ。 心の甘えは、その所で止まりしこと。 長きこと走るマラソンというもの、それにかけたる若き娘(オリンピックランナー高橋尚子)も、足を幾度も幾度も手術をいたし、もう走ることはならぬと医者よりも宣告されておりしも、我がまだ走りたき、走りたきと思う心によりて走れるものとなる。 そなたの身体は一年も努力いたさば、しかと歩けるようなる。 手の方は、それより少し遅れようが、全てがうまく使えるようにはならぬが、不自由なく動くようにはなる。それをするのは我じゃ(病を治すのは自身の気力じゃ) 神に願うことではない。 神はそなたの命を、その御魂を今生に残したではないか。 なれば、後は我で、我の力をもちて、常に、誰が悪きことではない、明るく生き、明るく為して行くことにある。  様々なる不満、様々なる苦悩が、そのようなる病を引き起こしてしもうたのじゃ」

 神様に対する心得と、人間としての生きる心構えについて教えていただきました。 気力を持つか持たぬかは、己の心の持ち方ひとつではないでしょうか。

引き続き神様お教え下さる、   「それから先は、食はあまり取らぬこと。 動くことをあまりいたさず、食を取りすぎては、ただただ太るのみ、余計に動くことできぬ。 太ることは、脂肪がまた内に付いてしまう。 食べて少し休みしことあれば、次は己の身体を中に入りしエネルギーを使い、とにかくも動かし、歩き、手もそのように抱えておっては、動くことなぞはできぬ。 悪しき方の手でも、何かが落ちては、我が危のうことあれば、その動かぬ手とて必ずやそれを受け止める。 そのようなるものなのじゃ。 夫よ、そなたは、この女子(妻)が苦しみおることを辛く思いし、庇う過ぎて甘くしすぎるゆえに、(良くなるのが)遅れてしもう。 己は、己のことのみいたせばよい。 さすれば、我は不自由であろうが、それを治さねば生きるにはとても困りしことと思い、(己で)力を出すであろう。  そなたの病は、また同じく起こることあるやもせぬ。じゃから申しておる。 動くことじゃ。食をとって、それを蓄えておいてはならぬ。 力といたし全てを使うことに、血の巡りが良くなる。 希望を捨ててはならぬ。 その程度で、我が動かぬようになったなどと希望を捨ててはならぬ。  我はまだ、この世の様々なるものを見聞きいたすことができる喜びがあるではないか」  

(注釈)食生活において己を律することは辛いことですが、健康を思うなれば、それを喜びと思う心が必要ではないでしょうか。 また良かれと思う親切が、その当人には仇となることもあります。誠の心をもって接するとは如何なるものかをお教えくださいました。

続き神様より 生と死に付いて、又今世にて生きる心かまえをお教え下さる。

「元より今生と申す所は、様々(と修)行をいたす所。みな同じく苦しみて越えて行く。なれど、悪しき考えを持っておるものは、今生を離れし時も、御仏の元へは成仏できぬ。今生を生きて行くことに、力一杯に我が生き続けることにより、そして悪に染まらぬ心を持ちて行く、そのことにありて成仏叶う。成仏いたしたならば、もう苦しみはない。それは、そなたたちが常に使いし、その上の物(肉体は死んだ時に)全て脱ぎ捨て、御魂だけなるゆえ、痛みなども苦しみなどもなく、ただただ今生での生き方、我が悪しきことを全て落とし、穢れしものを落とし行き、幾年もかけて真白き生まれた時と同じゅうようになった時、天界へと昇れる。それゆえに、それを願わば、今その程度のことにて苦しみあがくことなぞは、ほんのわずかなることじゃ。今生離れしも、金に目が眩み、悪なる者は成仏もできぬ。地に落ち、人を殺め、騙し、穢れし者は、その家の者がいくら(供養をして)願うたとて成仏いたすことはならぬ。じゃによって今生におるは、そなた達のみではなく、成仏できぬ、ただただ浮遊いたす、どこへ身を置きし所もなき者たちが 多勢おるということ。そのようなる者になりてはならぬ。もう二度と同じゅうことは起こらぬよう、我の身体(を)大事いたし、日々を大事に大事に送られんこと。そなたの悩みなどは、ほんのわずかなるもの、案ずることはない。全ては己で力を使いし、他の者に甘えしことを止めることじゃ。全て己でできる、何もかもできると心に強く言い聞かせ、一日たりとも我の心を穢さず喜びへと変えて行くが、何よりの、どのようなる薬より効くこと。我(神)のことをわからぬ者、そして神子なるものをわか らぬ者は、我(自分)が何もかもなかった時のように、(元の健康な身体に)することができると思うておるようじゃが。

神様と神子様と人間に付いて。神様より

我は大神、人間などではない。(神は)人間が、いかに(修)行を行うて行くかを見届けておる。じゃがその中にても、良き心を持ちて、我に救いを求めし者に与えたる力、それを(教えるため)、我は神ゆえに神子と申す(神の)言葉を話せる者(伝える橋渡し役)を必要といたし、今生に始めより神子となりし者を落とし(誕生させ)、その神子を通じ、神なるもの(存在)を教えゆく。今生なる中で神に様々(と)救われ行くは、我が正しき良 き心を持ちて、我(神)に救い求めたる者にあり。そなた達に存知おろうが、わが国は様々なる信心をいたす所があろうが、真の信心なる人間の生き方を教え、そしてまた今生離れし時の行き方を教えゆく所なぞは他にはない。あちらもこちらも、いい加減なことを申すゆえに、どれが真やらわからずおろう。じゃが、我は正しき、穢れを祓う、木曾御嶽におる大神じゃ。そしてまた、それを受け止めしこの神子は、我の神子。ただただ今生で、我(人間)が苦しみたるものを救うことのみにて日々送ることいたしておる。そなた達のように、半信半疑なるものを持ちて参ること、真なるものを教えゆきたとて、何にもならぬ(こと)は知れたること。じゃが、救いを求めし者に手を差し伸べしことも必ずいたす。(治す方法の)全てはわが身にあり。その足もその手も、我が動かす力を持っておる。そのように辛きものではない、喜びを感ずることじゃ。命までも取られぬことを(有り難きことと思えよ)。一年を目安に、己で日々何事も手を借りずして行くことに大きな力が湧く。 (夫は)優しきことは良きことなれど、時にはそれが仇となる時もある。静かに見守ることじゃ。激しきこの世とはのう、御仏の元を往ったり来たりする(危篤で生死を彷徨う)者さえも、わが力にて、まだやり残しがあると思い、戻ってまいる者さえおる。我はほんのわずかな出来事(脳梗塞)で(人生を)終わりにしてしまい(諦めておる)。後は元に戻る日々の努力じゃ。それが今生を生きる、そなたの(修)行である。神が救いしは、そなたが今生を離れることを無きようにいたすことをしたのみ。その部分だけでも、我が(身体)全てを動く程度に止まりしこと、不満と感ぜず喜びに変えよ」

(注釈)日本人は真面目に努力すれば、住むことにも食することにも困る人は少ないと思いますが、それでも身近な人々と比べ、自分はなんて不幸なんだと嘆く人々が多いものです。この地球上には、悲しいことに戦争で住む家もなく食することもできず、手足が使えなくなったり失う人々もいます。自分自身の心の持ち方で、身も気持ちも変わり、神仏のご加護をいただけるようになれます。 「自分はなんて幸せなのだろうか」と感じて生きたいものです。